目指すもの

英語がなかなかできるようにならない。それはそうだ。英語を使わない環境にいても、全く向上は望めない。最近、グローバリゼーションについての本をよく読んでいる。経済において、日本が世界のトップの一角だった時代は20年前におわった。自分たち20代前半の人々は、日本のバブル時代に生まれ、その崩壊後、90年代の失われた10年と共に育ってきた。消費文化的には豊かな時代に生まれ育ったとは言え、これまで時代と社会の閉塞感はひしひしと感じてきた。
これからの日本人が目指すべき方向とはどこにあるのだろうか。おそらくそれは一人ひとりが志向する方向性がそれぞれあるかもしれない。これまでのように国民全体が一丸となって経済の成長や繁栄を目指す時代は終わった。価値観の多様性が認められた社会では、それぞれが持つ思想や理想を追求して、より豊かな社会を目指すべきであると考える。

孤独

孤独だ。孤独は自分の心を自由へ解放してくれる。何を考えていてもよし、何をしていてもよし、ひとりの時間は心地が良い。ひとりの時は、もっぱら、世界や存在についてだとか、人の心について考えている。何を考えているのか、自分の中で完結する。それはそれでいいんだけど、もったいない気がする。もっと誰かと話して、その人の世界の内側を覗いてみたい。
本当に自分は精神的に不安定な波がある。心が希望に満ち溢れる日もあれば、絶望のどん底でもがくような日もある。なんとかしてコントロールしたいんだけどなーと思う。いつでも心を一定の水準に保てることができたら、生きることがどんなに楽だろう。

死んだら一体人はどうなるんだろう。子供の頃からずっと考えている。無限の宇宙と時間の中で、自分が存在するなんて奇跡的だ。そこから自分が死んだら自分の存在がなくなるなんて恐ろしすぎる。真っ暗な朝を迎える。自分が死ぬということは、世界が無に終わることになることと同じかもしれない。無とは何か、どのような世界か。
こういうことを真夜中の寝る前に考えていると、いつも止まらなくなる。

iTuneU-SFC

iTunesSFC竹中平蔵教授の講義を観た。まとめメモ。
「健全な危機感を持つ。悲観的になる必要はない。」

  • フラット化する世界

技術的なバックグラウンド変化が起こった。デジタル革命である。 
デジタル革命は世界をフラット化した。例えばテレホンオペレーター業務。コールセンターをアメリカ企業はインドに置く。
東西冷戦が終わった時代。東側の社会主義国、計画経済の人々が、西側の自由市場経済へ流れこんできた。それまで市場経済には27億人が活動していたが、それからは2倍の57億人となった。その意味で市場経済は2倍となり、チャンスも2倍となった。しかし同時にライバルも2倍に増えた。
人件費の均一化→先進国と途上国との賃金の差が狭まる。賃金の安い新興国に、先進国労働者の賃金収入が収斂していく。先進国労働者の能力や技術において、現状維持は所得の低下を招く。今日より明日、賢くならなければならない。知識的付加価値を高めていくべきだ。そうでないといけない。

  • スパイキー化世界(でこぼこな世界)

フラット化と同時に、一方で起こっている世界の変化。
リチャードフロリダという人物がいる。都市研究を進めていく。衛生写真から夜の地球を観察した。いくつかの明るい地域がある。夜でも電力が供給されて人間が活動している地域→メガ・リージョンと定義した。例えば、東京、アメリ東海岸など。

雑感

孤独だ。自分はこれから一生、独身でいる気がする。おそらく結婚は無理だろう。仮に結婚はできたとしても、共同生活を送り続けることに耐えられない。自分のことを理解してくれる人がいるとは思えない。そもそもそういう願望が幼いのかもしれない。
思えば、自分が一人でいたい理由は、精神的に独立していたいからだ。人間関係に縛られると、自分が自分ではいられなくなる。どこかで必ず自分を殺さなければいけない場面に遭遇してしまう。社会で生きていく上ではそれは仕方がないことではあるが、どこで自分の折り合いをつけていくか、妥協点を探っていくか。
孤独は精神を独立させると思う。自分と対話することは、自己を冷静に客観視したり、今までの行動や出来事を振り返って反省したり、これからの計画や目標、ビジョンに向けて行動することが可能である。ひとりの時間で情報収集や勉強もできる。精神的孤独は、個人の中に独自の世界観を形成する。人間ひとりひとりに、それぞれの宇宙や世界が内側に存在する。それが個人の世界観であり価値観だ。
精神的独立による、個人の価値観・世界観が相互に認められる社会こそが、豊かな世界であると考える。言い換えれば、多様性が認められる世界である。今の社会に偏在する画一的な価値観に規定されず、物事を認識する特定の枠組みに捉われない、多様性が豊かで自由な公共圏こそが理想だと考える。

自由と制約

一人が落ち着く。時に孤独は心地良く快適だ。自分の時間を自分で好きなようにできるからだと思う。これが誰かと一緒にいるとそうもいかなくなる。大学に入って一番良かった点が、中学高校と違って全てが自己管理のもとに返ってきたことだ。生活リズム、時間管理、学習科目など、基本的に自分で好きなように決めていいことになっている、自らの責任において。
中学高校で一番苦手だったのが、管理される環境にいることだ。平日毎朝、同じ時間に起きる。電車で片道1時間30分かけて学校へ通う。時間割に従って工場作業員のように行動を強制される。放課後は、帰り道ぶらぶらしながら、家帰ってもだらだら。その繰り返しの日々だった。当時は平穏に通って無事に卒業できたけど、今振り返ると怠け者の自分としてよく生活を送っていたと思う。誰かに管理される生活は、これからの人生でもうたくさん、こりごりである。
話がかなり飛躍してしまうが、人間の本質は自由でいることだ。自由が思想や発想を生み出し、新しい文化や技術を産み出していく。とはいえその自由にも制約という自律が必要である。制約があるからこそ自由が生きる。

学習

最近はもっぱらインターネットで知識を学習しながら、個別指導アルバイトという生活だ。インターネットでの学習はとても便利だ。ウィキペディアやウォールストリートジャーナルなど、英語のウェブページ読むようにしている。将来、英語は必ず必要になるので、未来への知識投資として考えて語学学習を続けている。不思議なことに、そういう意識を持つとモチベーションが維持できるし、英語と専門知識が同時に身につくので一挙両得である。また、何かを学ぶ為に文章を読む時、英語の方が日本語よりも理解しやすいと感じるようになった。これは、もともと経済や法律などの専門知識の概念が西欧の英語圏で発展してきたことと、英語では語順の論理展開や専門用語の定義が明快であること、この2点が理由として大きいと考える。
大学に入学してカリキュラムは別に、個人的な独学で知識を吸収することに努めて以来、学習について様々なことがわかってきた。ひとつは知識を体系的に全体像を理解する重要性。その体系的理解が物事を認識するのに役立つこと。その認識によってものごとの見え方が異なり、全く別のものとして見えることがある。そして認識による思考が人の行動に影響を及ぼすこと。これが学習に対する率直な自分の意見。西欧近代の啓蒙思想(Enlightment)や、欧米の大学のモットーが「知は光である」というように、人は学べば学ぶほど、物事が見えてくると思う。

自分−他人

自分が見えない。自分が存在するのに、自分の全体像が見えないのはおかしくないか。自分が存在しているのに、自分では自分を見ることができない。鏡を通じて、でないと。自分が考えている、イメージしている自分と、相手が見ている、認識している自分は、おそらく違い異なる。その人の目には自分はどのように映っているだろうか、ずっとそういうことを考えてきた。相手の中に存在している自分は、自分が望んでいる自分だろうか。以前は無理に疲れてた。
自分の枠組みで他人という人間を認識してしまう。本当はどういう人間かわかるはずがない。
閑話休題。社会科学や自然科学のモデルについて。メモメモ。
モデル(Model)
簡単で具体的なもの・・・理論を説明するため。例えば、幾何学的な図形、DNAの構造は二重らせんモデルで説明される。
その他には、数理モデル、統計モデルなど様々な分野で用いられている。
よく理系や経済学の人たちがモデルという言葉を使うことが気になっていた。モデルとはなんだろうと。抽象的な概念でイメージが湧かなかった。例えば、数学は人間の論理的思考を抽象化したモデルのひとつだ。モデルというのは、現実の社会や世界で起こる現象や事象を認識して、それを抽象化した論理だったり概念だったりする。いわば、たくさんの人の間でお互いに共通理解できる概念を作りましょうという。だからモデル構築には客観性や論理性が求められる。それがモデルのイメージだと思う。